こんにちは、ばくです。
昨日までは暖かくて、
このまま春になればいいななどと思っていたのですが、
今日は寒くなりましたね〜
近所の梅の木が、今、満開です。
1月半ばから咲き始めていたのですが、
去年よりも早かったような気がします。
暖かかったせいかな。。。
さて、今日はこの前の話の続き、、、
「明月記」に書かれてた超新星爆発に関連した話ををしましょう。
この前の話はコチラです。
1054年のある日、寿命を迎えた星がひとつ、
宇宙の彼方でその一生を終えました。
「超新星爆発」を起こし、華々しく散ったのです。
その姿は遠く離れた地球の小さな島国、日本でも観察されました。
正確にはその星は7200光年先にあって、だから爆発を起こしたの7200年前です。
突然夜空にとても明るい星が出現し、人々はその姿に驚きました。
そしてその出来事を、歌人の藤原定家は「明月記」に記しました。
この広い宇宙で突然起きた異変に気付いたのは、日本の人々だけではありません。
地動説を唱えたコペルニクス(1473〜1543年)が生まれるよりもずっと前のことで、地球が丸いってことも知られていなかった時代ですが、それでもこの異変は地球上のあちこちで目撃されていました。
この星のことが、いろいろな地域の記録に残っているのです!
その頃の人々は自分たち以外の国のことなんてほとんど知りませんでしたが、それでも世界の人々は同じ空を見上げ、同じ星を見ていたのです。
ちょっと、わくわくします^^
そんな、世界に残る1054年の超新星爆発の記録を見てみましょう。
中国の記録
1054年当時、中国は「宋」という国でした。
この時代のいくつかの史書には、1054年に突然現れた明るい星の記録があるそうです。
(「宋会要(1081年)」「続資治通鑑(1168年)」「宋史(1345年)」など)
それによると、1054年7月4日に現れて1056年4月5日までの653日間も見ることができたようです。最初の23日間は昼間でも肉眼で見えたと言います。
金星と同じくらいの明るさがあって、吉兆も占われ、これは良いことが起きる兆しだと言われました。
*客星の現れた日付が、日本の明月記の記録と同じではありません。
遼の記録
「遼」は内モンゴルを中心に中国の北辺を支配していた国です。
この国にも、1054年に現れた明るい星についての記録が残っているようです。
ネイティブ・アメリカンの記録
この頃、北アメリカではネイティブ・アメリカンの部族社会が成立していました。
文字としての記録は残っていないのですが、洞窟に残された壁画などを研究すると、1054年に現れた星のことを表している記録があるとする説もあります。
ただし、この壁画が本当に同じ星のことなのかどうかはわかっていません。
イスラム圏での記録
この頃イスラム圏はあまり統一されていませんでしたが、1054年に現れた星についての簡単な記録が残っているそうです。
ヨーロッパの記録
1054年、ヨーロッパではローマ・カトリック教会と東方正教会が分裂しました(東西教会の分裂)。世界史で習った気もしますが、もうよく覚えていません。。。
そして面白いことに、ヨーロッパにはこの星についての記録が何も残っていないそうなんです。
ちょっと不思議な気もしますよね。
これだけいろいろな国の記録に残っているのに、、、、
星のこととか観察していそうなヨーロッパに、何もその記録が残っていないなんて。
かなり明るく見えていたらしいんで、絶対気づいた人はいるはずですよね。
言ってはいけないと、何か弾圧的なものでもあったんでしょうか?
「明月記」のあの星は今、「かに星雲」に!
1054年に世界各地で突然発見された明るく輝く星は、やがて数年後に姿を消しました。
しかしあの時代の人々が見ていた星の痕跡を、現代を生きる私たちも見ることができるんです。
現在、「明月記」のあの星は牡牛座に出現した超新星であることがわかっています。
超新星(supernova)の頭文字と出現年から『SN1054』と呼ばれているのです。
さらに超新星爆発の名残として、現在はそこに「かに星雲」が存在しています。
1054年に爆発し、その後少しずつ変化して今の「かに星雲」になりました。
見た目がカニの足に似ているから、こう名付けられたそうです。
1731年に発見されたこの「かに星雲」ですが、今現在も少しずつ膨張し形を変えています。
平安の人々が驚いて見た星の痕跡を、令和の私たちも見ることができるなんて、すごくないですか^0^//
肉眼では見えませんが^^;
「明月記」がらみでまだ書きたいことがあるんですが、
今日はこの辺で。。。
読んでいただき、ありがとうございます。